2015年2月28日土曜日

インド更紗


『更紗、美しいテキスタイルデザインとその染色技法』 (田中敦子編著、渞忠之写真、誠文堂新光社、2015)は、たくさんの美しい更紗の写真が載っていて、布に関心のある人なら、誰でも楽しめそうです。

更紗とは、木綿布に模様を色彩豊かに染めた布のことです。
インドではインダス文明の時代にすでに木綿の栽培、織りや染めもはじまっていて、紀元前後には、更紗の基本技法が編み出されていました。

木綿は、藍色と茶色以外の植物染料が定着しにくい(染めにくい)のですが、インドでは高度な科学的な処理を施すことによって、赤、紫、黄、緑などの鮮やかな色を、堅牢に染めることができました。
とくに茜の根で染める赤は、インド更紗の象徴とも言える色です。

手描き、インド、17世紀
インド更紗は、15世紀の大航海時代に、インドを越えて世界的なものになりました。
ヨーロッパ人の大航海は、香辛料を求めてはじまったものですが、インド更紗はその一つの重要な交易品となり、東へ西へと運ばれたからです。
インドはそれぞれの国の好みに合わせて、違うおもむきの更紗をつくったのです。

この本は、インド更紗とともに、ジャワ更紗、ヨーロッパ更紗、和更紗などが紹介してあり、実際の染め方についても記してありますが、ここでは各地域向けにつくられた、インド古更紗だけ取りあげてみます。

ヨーロッパ向け、手描き、19世紀
ヨーロッパ向けには、おもには大柄なものがつくられました。というのも、ベッドスプレッドやタペストリーなどとして使われたからでした。
ドレスにも仕立てられました。

ヨーロッパ向け、手描き、17-18世紀
17世紀半ばから、ヨーロッパではシノワズリ(中国趣味)が流行して、左右非対称の模様が好まれました。

インドネシア向け、手描き、17-18世紀
香辛料の、クローブやナツメグの産地であったインドネシア向けには、ボーダーに鋸歯文(きょしもん)のあるものが多くつくられました。
鋸歯文は古くからあった模様ですが、インドネシアでは多産、豊穣の象徴である若竹の芽を表現しているとして、女性のサロン(腰巻)に好んで用いられました。

日本向け、手描き、17-18世紀
日本向けには小紋柄が主流でした。
これは「ごとくて」と名前のついているものです。火鉢に置いた五徳から連想した名前です。

タイ発注、手描き、17-18世紀
シャム(現在のタイ)からインドへの発注品としては、仏教色の強いものが染められました。
細かい手書きで、宮廷や寺院の掛け布として用いられました。
シャム仕様の更紗は、日本でも「暹羅染」と呼ばれて珍重されました。

ペルシャ向け、手描き+木版、18-19世紀
ムガル帝国によって、インドはイスラム化した時代がありました。そのとき、ペルシャ(現在のイラン)からたくさんの職人が渡って来て、ペルシャ向けの更紗をつくりました。
やがて、彼らはペルシャに帰っても更紗をつくったので、ペルシャ向けの更紗は、インド更紗かペルシャ更紗かの見分けは、とても難しいそうです。
ペルシャでは、更紗は主には祈祷のときに敷く布として用いられました。

このように、国によって用途も違う、さまざまな更紗を染めて送りだしたインドですが、自国向けの更紗は小紋のような小さな模様が多いのです。

木版、18世紀
この細かい模様を木版でつくったというのですから、驚きです。

木版、19世紀初頭
 二枚の更紗をつないでありますが、木版をつくる技術の高さがうかがえます。

木版、20世紀初頭
茜一色の木の葉模様の更紗も国内向けです。
エジプトのフスタートで発掘された、現存する最古の更紗に通じる素朴な更紗だそうですが、現在つくられている更紗ともつながりを感じる、素敵な更紗です。

サンガネールの木版更紗を着る王、19世紀初頭
更紗をまとった王さまの絵です。
なんて、かっこいいのでしょう。

更紗は、この本にあるように、木綿、織りの技術、染めの技術の三拍子そろってやっとできるものです。
でも、私は木綿とともに竹も加えたい気持ちがします。

織り機は、元々は竪機(たてばた)でしたが、(おさ)ができて水平に経糸(たていと)を張れるようになりました。そして、竹のあるアジア一帯では竹の筬を使ったので、細かい織り目の布を織ることができました。ところが、竹のない地域では、目の詰んだ精巧な筬をつくるのは難しいことでした。

大航海時代に、ヨーロッパで織られていたのは、毛織物と麻織物だけでした。
ヨーロッパの古い筬のことを考えてみたことはありませんでしたが、竹ではない植物でつくったものでつくっていたのか、あるいは中国あたりから筬を輸入していたのか、それとも、一般家庭ではまだ竪機が使われていたのか、どうだったのでしょう?
ヨーロッパでは、もしかしたら、織り物では繊細さを出すことができなかったのが原因で、編みもの、ボビンレースや鉤針編みなどが発達したのかもしれません。
彼らは産業革命で、金属の筬をつくったことによって、やっと薄手の布を織ることができるようになったのです。


さて、我が家にあるインドの布、インド古更紗に比べると単純ですが、これらもインド更紗と呼んでもいいのでしょうか?
これは木版です。


これは、どうでしょう?
上の茜の「木の葉模様」の流れをくんでいると思えば、嬉しいものです。


そしてこれ。
シンプル過ぎるけど、大好きな布です。


19世紀初頭のマハラジャーの絵には遠く及びませんが、我が家にもインドの細密画もどきの絵があるので、見てみました。
みんな、更紗の服を着ている!
嬉しくなりました。






2015年2月27日金曜日

ひごのきれいな籠


ずいぶん昔から持っている、ちょっと大き目の籠があります。
すかすかですから、穀物などは入れられず、もっぱら裁ち落とした余り布など入れて、そこいらに転がしたままになっています。


縁と底に回した太めの竹は針金で綴ってありますからそう風情はないのですが、竹ひごの削り方がちょっと面白いのです。


真ん中だけ、竹の皮を残して、両脇を斜めに皮をはぎ落としています。
防虫のためにわざわざ燻したのか、あるいは古いもので、かまどの上で燻されてしまったのか、皮を削り取ったところだけ、濃い色に染まり、ひご一本一本が縞模様に見えます。


底も、なかなか面白い編み方です。


こんなひごのつくりかたは、フィリピンだと思いますが、どの島でしょう?
フィリピンは竹だけでなく、ヤシの葉、ラフィア、ラタンなどなど、いろいろな材料で籠をつくる、籠細工の宝庫です。


光が透けると美しいのですが、電球の笠にするには、ちょっと大きすぎます。
というわけで、お役定まらずの、「どこにもしまいようのないもの入れの籠」として、今日も窓のあたりでごろごろしています。






2015年2月26日木曜日

今年の犬供養


抱児観音の前を通りかかると、新しい三つ又の木をお供えしてあるのが見えました。
昨年の三つ又には、「二月に新しくした」と記してありましたが、今年も二月に子安講を開いて、三つ又を新しくして、犬供養をした模様です。


左側の枝、
 

右側の枝。
そして、三つ又の下の部分には、今年は立てた日づけは記してなくて、集落名(子安講名)が記してありました。


昨年もそうだったけれど、三つ又には紙を結びつけてあります。


新たな発見(?)がありました。右から四番目の背の低い石像は、観音さまのお顔でした。

 
そして、右から二番目の、抱児観音のお隣のやはり背の低い石像は、上がなくなっていますが、右の方が抱っこされている赤児の頭で、観音さまの手があって、その左下に赤児の足があるように見えます。

日本の石は腐ると聞きました。
湿気が多いので、地中にあるとき微生物などが住みつき、中へ中へと入って石にひびを入れ、そこに水がしみ込んで、さらにひびが大きくなるそうです。
ヨーロッパでは、トンネルを掘ったら掘りっぱなしにしますが、日本では、浸み出てくる水を逃がす対策が、大きな課題になるように、ほとんどの石に水が浸み通っているそうです。
そんなひびの入った石は、入った水が凍ったり、気温の変化や、衝撃で割れて行きます。

きっと、割れてしまった石像を、捨てるに忍びなくて、祀ってあるのでしょう。
ただ、この二つが一つのものだったら、接着しないまでも、離れて立てないだろうから、別のものでしょうか。
残っている部分も、頭の方も赤児の方も向かって左が長く、その間の部分が崩れたと考えるのもおかしいような気がします。


二月と言えば、このあたりの人たちは、旧正月を「小正月」と言ってお赤飯を炊きます。
三つ又を新しくするのも、旧正月と関係あるのでしょうか?

さて、ここから数百メートル離れたところに、八郷でもう一ヶ所犬供養をしているところがあります。そこは、昨年の四月には新しい三つ又が立っていましたが、夏ごろには草に覆われて、三つ又も立っていませんでした。


そこにも、新しい三つ又が立っていました。しかも、古いものが足元にたくさん転がっていました。


昨年は石の祠のすぐわきに建ててありましたが、今年立てたところは、祠から三メートルも離れています。いったいどういうことでしょう?
しかも、新しく立てた足元に古い三つ又をわざわざ集めている、集めたにしてはぞんざいに散ばせているというのも、もしかしたら何か意味があるのでしょうか?
推測ばかりしていないで、そろそろ誰かに聞いてみる方がよさそうです。


それでも、祠の前には、ご幣だったのでしょうか、何か供えてありました。






2015年2月25日水曜日

鉄仕事


塗装屋を無事引退した私は、今度は鉄屋の助手になっています。
下のコの字型鉄骨と、上のアングルとをボルト締めします。


12ミリの穴を開けるために、まず3.5ミリのドリルで小さい穴を開け、次に5.5ミリのドリルで穴を広げ、最後に円錐形になったドリルで12ミリの穴にします。


しばらく前までは、12ミリの穴を開けるときは、一番上の太いドリルを使っていました。
力がかかるので、インパクトドライバーには直に接続できないようにつくられているドリルです。接続部品を使って、もっと力の強いドリルに装着していました。


まず小さい穴を開けます。


それを広げます。


さらに、広げていきます。


この形のドリル(スパイラル・ステップ・ドリル)を、インパクトドライバーで使うときは、力を使って抑えつけないと開きません。
そして、電動のドライバーを使うときは、力は少なくてすみますが、ときどき反対方向に向かおうとする強い反動が来るので、必死でドライバーを抑えていなくてはなりません。
まあ、力を使わないですむ方に、軍配は上がるでしょうか。
もっと、根元で太くなっているのを使えば大きい穴が開くし、好みの直径の穴が開けられる、とても優れ物のドリルです。


助手は地上で作業していますが、親方は高いところで同じような作業しています。
「受け」穴はあらかじめ開けてありますが、いくつかは現場で合わせて穴を開けるからです。


12ミリの穴が開きました。 


それを、ボルト、ワッシャー、ナットで留めます。


完成したところです。


それを、親方が所定の長さに切断します。
 

この、アングルを取りつけた細い鉄骨は、南側の二本目です。
一本目の幅の広い鉄骨は、先週あげました。
というわけで、今下で準備しているところ。これから上げます。




2015年2月24日火曜日

刷毛の改造


コの字型の鉄骨に、さらに端がちょっと曲がっている形のものがあります。
内側は、塗るのが難しくて、塗り残しが出てしまいます。
ホームセンターで、小さな、曲がった刷毛を買ってきましたが、これでもちょっと届きそうにありません。


というわけで、柄を切りました。
細い、極細のネジ釘を二本打って鉤型に留めたいと思います。


ところが柄の木が薄くて、細いネジ釘一本でひび割れてしまって、もう一本打てそうにありません。
しかたなく、ボンドをたっぷり垂らしてみました。


使ってみたら、
「ひゃぁぁ、いい具合!」
塗り残したところがきれいに塗れます。
でも、刷毛先に力がかかるので、ネジ釘一本ではじきに筆が伸びてしまいます。


これでどうだ!
針金で、縛ってみました。劣化して、転がっていた針金ですが、なんとか大丈夫そうです。


見た目は汚いけれど、問題なく使えて、錆び止めを塗り、さらにペンキの下塗り、二度塗りとうまくいきました。

しばらく塗装屋をやっていましたが、やっと塗装屋から解放です。鉄骨だけでなく、細いアングルも、すべて塗り終わりました。