2014年7月27日日曜日

気遣いと、「みんなと同じ」心理の引き起こすこと

先週の日曜日に、岡山博氏(元仙台赤十字病院医師、東北大学臨床教授。現在はお辞めになっています)の「放射能の影響とこれからのこと」という講演を聞きに行きました。
あまりの内容の重さに、数日は打ちのめされていましたが、やっと元気を取り戻してきたところです。

岡山氏は、ときどき自分の考えもはさみましたが、多くは事実を述べられただけでした。それを聞いていると、原発事故時から今日の放射能拡散まで、対応の遅れに日本人気質が大きくかかわっていることがよくわかり、はたして今後、この問題に最善の方法で対処できるのか、もっと悲惨なことが起こってやっと気がつくのか、深い絶望感にとらわれてしまいました。


まず、爆発時の対応です。 
福島第一原発4号機の爆発のおり、遅ればせながらではありましたが、半径20キロ以内に住む人に、「避難せよ」という指示が出されました。しかし、20キロ圏外の人には、「家に留まるように」との指示が出されました。
これは、20キロ圏外の人たちの「不安をあおらないため、混乱に陥らせないため」ということでしたが、これによってたくさんの人たちが、無用に被爆しました。
当時、じつは一号機もいつ爆発するかわからない状態にあったそうです。幸い、一号機の爆発は何とか回避できましたが、もし爆発していれば、多くの方が被爆どころか犠牲になっていたでしょう。
表向きの指示はそのようなものでしたが、東京電力内部では爆発の前から避難指示があり、東電の家族たちは、爆発時にはみんな逃げていたそうです。

爆発時にアメリカが半径80キロ圏内の避難指示を出したことは記憶に残っています。ところが諸外国の中では、アメリカは、「政治的に配慮して」もっとも甘い対応をして、80キロだったそうです。そして、表向きは80キロ圏内でしたが、内々(アメリカ人)にはもっと厳しい対応を指示して、たくさんの人たちがそれに従って、国内外に避難しました。

確かに、真実が隠されていた状態でさえ、ガソリンはなくなり、大きい道は避難する人の車が溢れ、身動きが取れなくなりましたから、20キロ圏外の人も避難となると混乱をきたしたと思われます。しかし、その混乱の回避の方法まで事細かに提示し、あるいは事故以前から、原発の周辺ではこのような事態を想定しておいて、逃げることを奨励すべきでした。
飯館村に住んでいた私の友人は、幸い外国のメディアの情報をキャッチして、幼児三人を連れていち早く逃げました。しばらく経ってから、原発から遠く離れた飯館村が、じつはホットスポットだったことが周知されました。 


次に、汚染された福島の農林水産物の処理の問題です。
岡山氏は統計を数字で示していましたが、驚くことに、福島県産の農林水産物の売り上げは、事故があった年も、その前年の売り上げとほぼ同じでした。
(一部の)個人消費者から購買を敬遠された福島の農林水産物は、「不安をあおらないため、混乱に陥れないため」に「福島県産」という表示の多くを、「国産」、あるいは「太平洋産」という表示に変えました。
汚染された農林水産物を「残さない」ことは命題となり、外食産業に使われ、加工食品にされて、日本全国に売られた結果、残らなかったのです。

汚染された食品の消費の、もっとひどい例は給食でした。
福島県内の小中学校では、「郷土の食材」を使うことが奨励され、教師には「放射能の影響」という言葉を語ることを封じました。
給食の食材が汚染されていることを恐れてお弁当を持たせようとする親には、「給食は教育の一環である」として、お弁当を持ってくることを禁止しました(今は持って行けます)。そして、残してはいけないと、子どもたちに「完食」を強要しました。
それでも抵抗する親には「モンスターペアレンツ」というレッテルを貼り、「精神科へ行って診てもらえ」と言われた人さえいたそうです。
学校給食に福島産の農林水産物を使うことを拒否しようとした、心ある自治体には、他の予算を回さないといった手段で対応し、結局子どもたちに食べさせざるを得ませんでした。また、パンの原料の小麦も、「外国産」ではなく、「国産(=福島産)」を使うことが義務づけられました。

今回の事故では、チェルノブイリの影響についても参考にしているはずです。ところが、参考は影響をはっきりと断定できる小児がんの増加だけに絞り、それ以外は、「証明が不十分だから」と、参考案件にも乗せず、切り捨てています。
数年後にいろいろながんなどの病気が増えたとしても、「放射能の影響とは断定できない」と切り抜けるつもりでしょう。

    
もう一つは、これからのことです。
事故が起こった日、多くの時間は西風が吹いていて、放射能は海の方へと運ばれ、その後風が変わって、周辺各県が汚染されました。例えば、宮城県の稲わらが汚染され、それを食べた牛から高濃度の放射能が検出された例などがあります。
この汚染して廃棄せざるを得ないものは、各県に汚染物質処理場をつくって対応しようとしています。そして、一番廃棄物の多い福島県では中間処理場をつくっていったん処理し、その後県外に最終処理場をつくって運ぶ計画だと発表されています。
その最終処理場としては、各県の、地盤の固いところ、「石切り場の跡」などが狙われています。

その廃棄物は、危険極まりないものです。
他の原発や大学の研究室など、放射能汚染物質を扱う場所では、通常100ベクレル/kh以上の放射能廃棄物の処理は、許可を持った者だけが厳重に行なうことが義務づけられています。ところが、今回の事故で生じた廃棄物の放射能に関しては、その基準では処理しきれないからと、三年の時限立法をして、8000ベクレル/khまで、一般ゴミとして処理していいことになっているそうです。それは今年の8月まで有効ですが、この分だと延長されそうです。
考えられないことです。
これら、核廃棄物の拡散に対して、岡山氏は一ヶ所に集めるべき、福島県にある原発から出たものだから、他県のものも福島県に戻すべきだと考ています。
つまり、原発から半径20、30キロ地域には、除染をして戻れるかもしれないと、かつて住んでた人たちを励ますのではなく、「もう帰れない」と宣言して、汚染物質をこの中に集めるべきだとの考えです。
  
いま、仮設住宅で宙ぶらりんに暮らす人に、「元の家に戻りたいですか、それとも新しい生活をはじめたいですか」とたずねても、多くの人が「戻りたい」と答えるのは当然です。代案が想像できないし、提示もされていないからです。それを聞いて、「年寄りを生まれ故郷に返してやりたい」というのが、若い人の悲願になっていたりします。
農業従事者の生活の再建は、勤め人のそれより難しいかもしれません。
でも、私が農村でかいま見るかぎり、農村では無人の家が増え続け、耕さない畑が増え続けています。「元の村の全員で一緒に住みたい」と言わなかったら、数軒ずつなら、積極的に動けば、どんな農村でも被災者の受け入れは可能だと思います。

以前住んでいた人たちには、他で生計を立てられるよう、最大限の努力をすべきで、放射能をこれ以上拡散すべきではないという岡山氏のお考えに、私もまったく同感です。

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今、「福島に住めない」、「福島を捨てよ」は、禁句になっています。
多くの「心ある人たち」も、福島に出かけて人々を励まし、そんな人たちは、「福島に行っていない人」を、あからさまではないけれど、非難がましく思っていることさえ感じられます。
ところが、福島に行って、「かわいそうですね」と言えば、少しは自分自身を慰められるかもしれませんが、福島の人をさらに汚染された地に縛りつけることになるのです。

これは、太平洋戦争中に、「日本は負ける」と言えなかった雰囲気とそっくりです。「お国のために頑張ってください」と言うのとも似ています。
傷には触らないで、事なかれで表面を平穏そうに保つ。傷をなめ合う。そんなことを続けているうちに傷は深くなります。

テレビドラマなどで、戦時中の隣組などの無知ぶりを滑稽なものと笑いながら、現実にはあれと同じことをしています。今頃になって、東京大空襲のとき受けた損害を政府に補償しろと訴えた人がいると新聞で読んだときは、笑いたくなりました。昔のことを、「他人のせい、政府のせい」だと訴えるより、その人は今の自分はどうかと、自問自答すべきです。
今、日本の製造業は日本以外の国々で多くが行われています。「やらせてやっている」のではなく、「自国ではやれない」のです。そんなことも考えず、さらなる繁栄の持続を求めて自民党を支持している人たちのことを無視しておき、「自分は正しいけれど、政府が悪い。国民は正しいけれど、政府が悪い」と考えるのは間違っています。
政府は国民を映している鏡です。

岡山氏は、講演しても講演しても成果の少ないことに落ち込みそうになるけれど、やはり続ける以外ないと思われているようでした。
何をすべきか、一人ひとりによく考えて欲しいという言葉が印象に残りました。
都会で暮らすことをやめただけでなく、他に何ができるか、しっかり考えてみたいと思います。





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