2013年4月21日日曜日

八郷の石塔

先日の、道端の謎のこと、hattoさんから、犬供養ではないかと教えていただきました。
私としてはそれで十分でしたが、一応誰かにたずねてみようと思い、このあたりの古いこともよく知っていて、地元の名士でもある郵便局長のYさんを訪ねてみました。
石塔の話をすると、心当たりをたずねてみる、石塔の冊子も持っているので、貸してあげるとおっしゃいました。


そして一昨日、局長さんが、冊子を持ってきてくれました。


冊子の第二集に、私が見た石塔が載っていました。
吹上地域の女性たちが集まった時、お経を書いてお供えする、子安観音だそうです。
この子安観音は明治33年に建立されたもので、冊子を見ると、八郷の石塔の中では比較的新しいものでした。 


冊子は、『八郷町の石造物』第一集から第三集までで、それぞれ、1984年、85年、87年に出版されています。
道路の拡張・新設や生活スタイルの変化で忘れられていく石造物を惜しんで、町の教育委員会がつくったもので、八郷高校教頭だった西宮一男氏と郷土史家の鈴木幹男氏が、収集、碑面解読、編集にあたられています。

限られた時間で、ただ見つけるだけで精いっぱいだったようですが、田んぼの基盤整備がなされてから時間も経っていることだし、深く考察するには材料が少な過ぎたことと察します。 


おもしろいのは、建立年代からみた分析です。
八郷の石塔は、江戸時代の寛政 (1789-1800)から、天保(1830-1843)までのものが最も多く見らるそうですが、この十八世紀末から十九世紀前半にかけて、とくに如意輪観音像や 子安観音像が多く建立されていることは、信仰上の流行があったとしても、天明年間(1781-1787)の大飢饉以来、しばらく続いた天災と無縁ではなかったのではないか、また世界情勢の変化に伴う 政情混乱によっても、農村が窮乏していたことが影響しているのではないかと書かれていました。

天明以降の凶作は、 東北・関東の農村社会に大きな打撃を与えて、没落農民や餓死者が相次ぎ、容易に回復しなかったそうです。厄災のない社会や子どもの健やかな成長を願って、村人たちは女人講、念仏講など、貧しい生活のなかから積み立てて、石塔を建立し、村の団結も強めていきました。


しかし、これらの石塔が熱い信仰に支えられていたのは、今は昔。冊子の中には、三つ又をお供えしている(=今も信仰が続いている)石塔の写真は、私が見たもの一枚のみでした。

私が見た子安観音の近くにも、川を隔てて別の女性たちが信仰している子安観音があるということなので、局長さんに教えられた通りに行ってみましたが、道を間違えたか、二十三夜供養塔しかみつからず、もちろん、三つ又のお供えも見つかりませんでした。 


昨日、所用があって隣町に行った帰り、八郷に戻ってから、峠近くの村の旧道に入ってみました。


あるある。
写真はその時のものです。
子安観音や鬼子母神は見かけませんでしたが、二十三夜供養と結びついた如意輪観音やお地蔵さまにたくさん出逢いました。ただ、まだ道端に立っていらっしゃるのは少数で、多くは共同墓地に集められていました。

月待ちの十八夜、十九夜、二十二夜、二十三夜、二十六夜はいずれも女人に信仰されたようでした。
陰暦正月と七月の月待ちがとくに盛んで、二十六夜の月の出の時、阿弥陀、観音、弥勒三尊が現れ、これを拝めば幸せに恵まれる話、この夜密かに念じて鏡をのぞくと、未来の夫の顔が見えるという話など、ロマンに満ちた物語から、現実には子宝に恵まれて安産であることを祈願して、月待ちは江戸時代に大流行したようでした。
ただ、八郷にあるのは、大半が十九夜と二十三夜の石塔です。 

私が峠の村で見た石塔たち、
「冊子に載っているかな?」
と調べてみましたが、一つも見つけることができませんでした。冊子にも、「ずいぶん見落としている」と注意書きがありましたが、ちょっとやそっとでは集めきれないほど、八郷は石造物にあふれた盆地のようです。

局長さんのお話では、その土地で出た石を使っているので、八郷盆地の北と南、東では、それぞれ石も違うのだそうです。たとえば私が住んでいる地域では黒い泥岩が使われていて、もし、このあたりで筑波石(御影石)が使われているとしたら、背後になにか特別な理由があった、ということです。 


局長さんから本を貸していただく前に、筑波山を歩いて植生を調べたりしている博識のNさんと、筑波山のふもとの町北条で、古い郵便局を改装して開いている喫茶店ポステンのオーナー夫妻が、我が家にいらっしゃいました。 
そのとき、石塔の話になったのですが、Nさんのお話では、三差路に三つ又を供えているのは犬供養、本来多産である犬がお産で死んだりすると、そのままでは縁起が悪いので、三差路に埋めて供養したそうです。
また、Nさんとポステンさんのお話では、古い町北条には、三つ又の枝を建てている石塔が、三差路にたくさん残っているとのことでした。
ぜひまた、北条に行って見ようと思っています。

ちなみに、北条は先の竜巻で大きな被害を出したところです。竜巻は平らな風道を走ると思っていましたが、北条は山裾で、ちょっと高いところ、古い町ですから、田んぼにできるような平らな低い土地にはつくられていません。
それなのに、なぜ?不思議な感じがしました。

最後の写真は、旧道に生えていた大きな楠木です。



2 件のコメント:

hatto さんのコメント...

春さん、丁寧に調べてくれてありがとう!こんなきちんとした資料が残されているのですね。
そして現代に石仏が沢山残り、まだ、信仰も受け継がれていることが素晴らしい。絶やさず残していってほしですね。二十六夜、密かに念じて鏡をのぞくと、未来の夫の顔が見えるという話おもしろいです。占いに似たそれや様々な信仰が根付いていた時代が垣間見られます。これだけ色々な石仏が見られる八郷では石彫師も多かったのでしょうかね。先日、岐阜県の石材が多く採れる場所にいきそうした信仰物を探してみましたが、見つける事はできませんでした。Y字の卒塔婆もやはりありませんでした。

犬卒塔婆について調べてみると、利根川下流域をはじめ、栃木、福島、宮城の諸県にかけて行われる女の行事。「関東」から「南東北」にかけては、「馬」などの家畜が死んだとき、かなり広い範囲で、家畜などの死体を辻や三叉路の俣、あるいは路傍や河原などに埋め、多くの場合、墓標として二股に分かれた生木の卒塔婆を立てたりしたとのこと。「馬」の場合は、「馬頭観音」の石碑などを建てることもあったが、「犬」の場合は二股の卒塔婆を立てるのが専らだった。このような卒塔婆を、俗に「犬卒塔婆 」という。とありました。 春さん、色々調べてくれてありがとう。郵便局長さんもありがとう。八郷は非常に興味深い場所です。

さんのコメント...

hattoさん
いえいえ。お粗末でした。本を著したお二人も石造物の専門家ではないと断り書きがありましたが、それでもいろいろな情報が読み取れました。
それにしても若い郵便局長さんはさすがです。このような冊子が出た時も、高額にもかかわらず、しっかり購入されていました。
我が家の犬が事故死した時、近所のおばあちゃんが、「牛や馬を埋めたところに埋めるか?」と聞いてくれたので、あぁ、そんなところがあったのだと、初めて知りました。馬頭観音の石塔が建っているところだと思うのですが、また機会があれば話を聞いてみます。