2011年3月31日木曜日

今年の米づくり



「今年は、お米はどうしようか」
「どうしようか」
「つくろうか」
「そうだね」

昨年は、私がアキレス腱を切って入院し、労働力の半減から、後手後手になってしまった米づくりですが、今年は、原発事故による土壌汚染という難題まで、浮上してしまいました。

近視的には、3月15日、16日を除いて、放射性物質は関東地方には流れてきていませんから、空気中の放射線の値は、じょじょに減りつつあります。
やがて元通りになるかとも思いますが、太平洋上には、いぜんとして、風に乗って放射性物質が流され続けていますから、地球規模での汚染は、収まっていません。

事故の収束がまったく見えない中、迷っているあいだにも、苗をつくる時期は、どんどん迫ってきます。




今年も植えることを前提として、撰米作業に入りました。
いつもだと、ぷっくりと太ったところを、種籾として採っておくのですが、昨年はそれをしていません。ヒエが繁殖して、出来も悪かったので、目で見て、手で触って、一粒ずつより分けることにしました。

作つけ面積が五畝(150坪)ですから、一本植えだと、種籾は三千粒あればいいということになります。二本植えでも六千粒、たいした量ではありません。

コシヒカリは目視で、赤米は、一粒ずつつまんで確認しました。




撰米前の赤米と、




撰米後の赤米です。
それにしても、赤米には実が入っていない籾が多かったし、コシヒカリにはたくさんのヒエの種が混入していました。ヒエは稲とそっくりで、しかも稲より強いので、水に沈ませる方法だけで種籾を選んだら、またヒエ田にするところでした。


2011年3月30日水曜日

ニャン太




デジカメが普及していなかった、10年ほど前まで、ちょっと歩けば、街のどこにでも、写真の現像を受けつける、小さな写真屋さんがありました。

そして、フジカラーのお店の前には、大きな招き猫のニャン太が立っていました。
あのニャン太たちは、どこへ行ってしまったのでしょうか?

根が怠け者の私は、持っている招き猫の写真を、ほとんど撮っていませんでした。
その招き猫が、今回の地震で一番被害を受けました。そうと知っていたら、せめて写真だけでも撮っておけばよかったのにと、悔やんだことでした。




ニャン太は二つ割れました。
一つはこれと同じだけれど、頭より胴の方が長い、初期のニャン太で、ポケットティッシュのイラストと同じくらいのプロポーションでした。
そして、もう一つはこれと同じ、頭と胴の長さが同じくらいの、ショートパンツにランドセルを背負っている、一年生のニャン太でした。

日本のキャラクターは、時を経ると、なぜか頭がだんだん大きくなっていくもののようで、ニャン太もその例にもれません。




これは、骨董市で見つけた、プラスティックのニャン太です。
最初は高いことを言われたのですが、一年も売れ残っていたので、もう一度声をかけてみたら、格安で売ってくれました。
もともとは、電池を入れると、点灯していたようですが、私が買ったときには電池が錆びて、危ない状態になっていました。それを取り除いて、きれいに洗ってやったのですが、今では壊れていて、どんなふうに点灯していたのか、不明です。




ソフトビニール製のニャン太です。とうとう頭の方が、胴より大きくなっています。

上野駅が改装して、正面口あたりにショッピング街ができたとき、開店したばかりの写真屋さんで見つけました。
「これ、ください」と言ったら、お姉さんが、すかさず、「売り物ではありません」と、にべもなく断ります。
「では、どうしたら手に入るの?」と聞いたら、「何かを買うと、おまけにつきます」

なあんだ。
私は、一本300円くらいのフィルムを買って、お祭りニャン太を手に入れました。




そして、クリップまでもらってしまいました。
そのクリップのニャン太は、さらに頭が大きくなっています。


2011年3月29日火曜日

コンペイトウ





伊豆の、小さな町のスーパーマーケットで、レジに並びながらふと見ると、テディーベアのプラスティック容器に入ったコンペイトウが、並べてあるのが目に止まりました。
値段を見ると、550円。「あらっ、お弁当が一食分買えるじゃない」と、見送りました。

次の日も、同じスーパーマーケットへ行きました。
いつもは、スーパーマーケットにはめったに行かないのですが、避難中は、食料調達に、毎日行っていました。

前日、コンペイトウが十個ほど並んでいた棚を見ると、よく売れていて、たった二つだけになっていました。
「わっ」。
あせって、私も一つ買ってしまいました。
もっとも、売れ残った一つは、いつまでも売れ残っていましたが。

小さいころ、駅の鉄道弘済会の売店の店先には、たいていガラスの容器に入ったコンペイトウが、長い紐つきで、ぶらさがっていました。ガラスは、あとで遊べるように、ラッパや鉄砲の形のものが多かったように記憶しています。
それはどこの駅に行っても、当たり前の風景だったけれど、祖父母に預けられていた私や弟が、そんなコンペイトウを買ってもらったことは、一度もありません。見るだけでした。

かつては、コンペイトウがもてはやされ、売れに売れた時期もあったとのことです。
しかし、現在コンペイトウを製造しているのは、全国で、わずか十社くらいです。




息子たちが小さいころ食べた、仮面ライダーのコンペイトウ入れです。




頭の後ろから、取り出して食べるようになっていました。




こちらは赤ちゃんのコンペイトウ入れ。
だったと思いますが、もしかしたら、ソーダ菓子入れだったかもしれません。




そして、もっと昔の、ガラスのコンペイトウ入れです。
『いろはにコンペイトウ』(栗原英次著、株式会社にじゅうに発行)によれば、これは、昭和30年代のコンペイトウのビンのようです。


2011年3月28日月曜日

神さま、仏さま





タイ人は、仏さまは、必ず高いところにお祀りするようにと、口を酸っぱくして言います。
というわけで、我が家も、神さま、仏さまは、床の間の上の、高いところにお祀りしています。

祖母の家の神棚にたぶん、私が生まれる前からお祀りしていた天神さまは、今回の地震で落ちて、首が取れてしまいましたが、修理することができました。

カンボジアのかぼちゃは、二つありましたが、一つ残りました。




息子がタイ人の友だちからもらった、高僧のレリーフのあるお守りや、




私が、熱帯林伐採に反対していたお坊さまからいただいたお守りは、入れてあったままごとの壺ごと落ちて、散乱していましたが、




もう一つ、同じ壺があったので、入れ直しました。




その他の、仏さまや神さまは、下まで落ちていたのもありましたが、ありがたいこと割れたり欠けたりしないで、みんななんとか無事でした。




サンプラプーム・チャオティーは、二階の渡り廊下の戸棚の上においてありましたが、余震があると大揺れに揺れるので、下の神棚に移しました。

被災地の皆さまに、一日も早く平安がおとずれますよう、心からお祈りするばかりです。



2011年3月26日土曜日

3月11日の地震



すごい地震でした。
ちょうど外で作業していたので、座り込んで、ただ家が揺れるのを見ていました。右に左に、前に後ろに、大地も家もいつまでも揺れやまず、やまないどころかますます激しくなり、家が紙でできたおもちゃの家のように揺れていました。

あんなに揺れて、欄間としてぐるりにはめてあるガラスのうち、二枚だけしかヒビが入らなかったのは、奇跡のようでした。窓ガラスは全部、無事でした。
しかし、棟瓦の一部は、がらがらと音を立てながら、落ちてしまいました。窓の中では、書斎の本棚の本が、雨のようにひっきりなしに落ちているのが、外から見えました。

揺れがしずまり、しばらくして家に入ってみると、土間入り口の上に飾ってあったガラスビンが、土間に散乱していました。洗面所の鏡も割れて、お風呂場や、洗濯機の中にまで飛び散っていました。食品庫では、胡椒を入れていた大きなビンや醤油のビンが落ちて割れて、足の踏み場もありませんでした。
せめて歩けるようにと、危険物になってしまったガラスや陶器の破片を、余震に気をつけながら集めましたが、停電していて掃除機は使えないので、全部手作業でした。

水屋(食器棚)は、ありがたいことに、薄いガラスの引き戸が、落ちようとする皿小鉢を支えてくれていて、食器はすべてが無事でした。




地震から数日経って気がつきましたが、吊っていた、プレプレマスクが、裏返っていました。




マスクは、平べったいものです。いったいどんな揺れ方をすれば、裏返るのでしょう。




土間に散乱していたガラスビンは、最初見たときは、大きな被害を覚悟しました。ところが、思ったより割れているのが少なかったのは、嬉しいことでした。




余震が大きかった数日は、ガラスビンを床に置いていましたが、片づいた気持ちがしないので、しばらくしてもとに戻しました。
まだ、一日に何度も余震がありますが、細いアルミのパイプの支えもあり、震度4くらいでは落ちたりしません。




それでも、余震で少し動いているのでしょう、お互いにくっついているビンや、倒れているビンもあります。
上の段の、左の空いているところには、ニッキ水のビンが置いてありました。一旦、もと通りに並べてみましたが、強い余震で倒れそうになったので、慌ててそれだけ下に降ろしました。




学生時代から持っていた、ラムネのぶ厚いビンは二本とも割れてしまいました。
しかし、薄いニッキ水のビンは、下まで落ちたのもあったのに、一本も割れていませんでした。とっても不思議なことでした。




三日目だったか、夫に「ひどいぞ」と聞いていた、二階に上がってみました。どこもめちゃくちゃでした。
破片から、一つ一つの招き猫を思い浮かべながら、修復できるもの、できないものを選り分け、修復できるものは、接着しました。ただ、どんなに愛着のある猫でも、粉々になってしまったものは、捨てざるを得ませんでした。
たくさん割れて悲しいはずなのに、無傷な猫が見つかると、「あなたよく無事だったね」と、嬉しくなりました。

津波や火災で、命や財産をなくされた方には、比べようもないほどの些少の被害であったこともあり、54時間の停電にも、120時間の断水にも、まったくへこたれませんでした。
しかし、原発事故には、へこたれています。

このあたりには、有機農家も多いのですが、長期にわたって土壌が汚染されるようなら、これからの植えつけはどうするのか、子どもだけでも遠くへ逃がした方がいいのかとか、皆さん心配なさっています。
もし、今回の事故を教訓として、脱原発をめざすことになれば、大きな犠牲を払ったけれどよかったということになりますが、電力を、今の消費量の20%でも30%でも節約する生活が、みんなで、心を合わせてできるでしょうか?

未来の子どもたちに、核廃棄物というゴミを残しながら、このまま、今だけの繁栄を謳歌する生活を続けるなら、今回のような事故も、甘んじて受けなければならないのだと思いました。

考えさせられる、日々でした。




                  練習用ゴルフボール



2011年3月11日金曜日

ベイクド・ビーンズ





キャロライン・クワイナーの子ども時代の物語、を読んだあと、久しぶり(三十数年ぶり!)に、ローラ・インガルス・ワイルダーのシリーズを、夜な夜な読み返しました。




子ども時代のあとは、青春時代へと続きます。ここで、訳の感じががらっと変わります。

古い訳の、とくに「とうちゃん、かあちゃん」が気になっていたところ、ネットで見たら、新しい訳本が出ているとのこと、内容は同じなのに、買ってしまいました。
やっぱり、「とうさん、かあさん」だと、なんだか安心して読めます。
原作は、「Pa、Ma」となっていて、正しく訳せば、「おとう、おかあ」くらいがふさわしいそうですが、まさかね。ローラはどうしても、「Pa、Ma」にしたいと、譲らなかったそうです。

「おとうさま、おかあさま」、「おとうちゃま、おかあちゃま」、も違和感を覚えますが、「とうちゃん、かあちゃん」にも、なんだか馴染めません。やっぱり「おとうさん、おかあさん」せめて、「とうさん、かあさん」だと、気を使わないですみます。

そういえば、昔の翻訳小説で、召使などが、「さようでごぜぇますだ」なんて、しゃべっているのも、気になりました。そんな喋り方、日本全国、どこにもありませんもの。




ついでに、ローラの本、もっと買ってしまいました。

インガルス家の食卓のご馳走に、ベイクド・ビーンズというのがよく出てきます。




みんなで、美味しがっています。
だんだん食べたくなり、古い料理本を引っ張り出して、レシピを見つけて、つくってみました。




まず、豚バラ肉を買ってきて塩をすり込み、塩豚をつくりました。一週間ほどでできました。




豆は一晩水に浸し、柔らかく煮ます。




塩豚はさいの目に切り、二時間ほど水に浸して、塩出しします。




キャセロールの真ん中に、クローブを突き刺した玉ねぎを置きます。




豆、塩豚、豆、塩豚と重ねてから、ラム酒、砂糖、辛子、胡椒、タイムを混ぜたものをまわし掛けて、ひたひたまで、熱湯を注ぎます。




ぴっちり蓋をして、120度に温めておいたオーブンで4~5時間、蓋をとって30分焼きます。我が家のオーブンのタイマーは90分しかありません。2度、3時間焼いて、よしとしました。

これは、ガスオーブンではなく、薪をくべる、暖炉の前に置くようなオーブンで、つくる料理なのでしょう。現代生活には、あまりにも長時間過ぎます。また、我が家の薪ストーブのオーブンだと温度が上がりすぎて、扉を開けっ放しでも、120度に保つのは、無理かと思われます。




お味はなかなかのものでした。とくにラムがきいていて、美味でした。
でも、ちょくちょくつくろうと思うようなお料理ではありません。煮豆ぐらいが、分相応でした。





2011年3月10日木曜日

汽車は行く





私は、汽車のおもちゃが好きだったのでしょうか?
それとも息子が喜んだのでしょうか?汽車のおもちゃはまだあります。

これは、長さが41センチもある、大きな機関車です。紐をつけると、引っ張って遊べます。
どこか(たぶん煙突)がちょっと壊れていたか、汚れていたかで、三両連結されたのを、「デザインショップ」のセールで、格安で手に入れました。




その貨車です。左右の扉が開きます。




しかし、一番長い、赤い色の客車が紛失しています。50センチはある、大きなものなのに、いったいどこに消えてしまったのでしょう?

結婚してからだけでも、15回、引越ししました。そのうち、引越し専門業者さんにお願いしたのは、バンコク赴任と、バンコクから帰国したときの二回だけ、あとは全部自分たちで梱包して、自分たちで運びました。預けてどこかに行くとか、荷物の移動は、もっと多かったかもしれません。

梱包するときも、それを解くときも、最初は丁寧にやっていますが、量が多いので、そのうちぼぉーとなって、手だけが機械的に動いたりします。
そんなとき、たいせつなものをゴミの方に入れてしまったり、梱包した箱を、ゴミと間違えたりするのでしょうか?




これは、車輪のないシンプルな板汽車です。
分解して立てると、人のようにも見えたりします。
私は好きでしたが、子どもたちには、ちっとも人気がありませんでした。





2011年3月8日火曜日

木のレール





昔のアメリカで、幼い息子よりも、親の方が目を輝かせたおもちゃが、スウェーデンのBRIO社の木のレールセットでした。
街一番のおしゃれな店、「デザインショップ」に並んでいました。

「欲しい!」。
アルバイトをしたり、セールを待ったりして、少しずつ買い足しました。




当時のレールの接続部分は、丸い頭の細い棒でした。
抜けたものは、接着剤をつけて、さし込みなおしましたが、細いのでずいぶん折れてしまいました。




しかたなく、折れてしまったものは、穴に詰め物をしてから、ヒートンをさして使いました。
現在では、接続部分はもっと壊れにくいものに改良されているようです。




列車の接続には、小さな金具がついていました。気をつけていてもすぐ抜けて、金具がなくなってしまいます。
こちらは、なおそうにも、引っ掛ける金具の方が、小さいものが見つかりません。

現在では、車両の接続は、マグネットになっているようです。




よく遊んで、手垢で真っ黒です。
オーバーブリッジだけちょっと白く見えていますが、やはり継手がだめになって、ずいぶんたってから買い足した、比較的新しいパーツです。


ぜんまい仕掛けのMade in Japan





ずいぶん昔、日本とアメリカの経済格差が、まだ歴然としているころ、アメリカで二年ほど暮らしました。

アメリカで暮らして驚いたのは、北欧の家具やテーブルウェア、フランスやドイツの台所道具、インドの布(当時流行っていた)、中南アメリカ(特にペルーとメキシコ)の手工芸品など、世界中から集まったものを、街で、日常的に目にできるということでした。

当時の日本は、1ドルが360円、渡航もドルの海外持ち出しも、厳しく制限されていました。
輸入品は少なく、ときおり大きなデパートで催される「海外の物産展」で、ほんの少し、珍しいのものをかいま見ることができるだけでした。

そんなアメリカで、なぜかMade in Japanには、あまりお目にかかりませんでした。走っている車も、ほとんどアメリカの車でした。
見つけた数少ないMade in Japanがこれ、ぜんまいで動く小さなおもちゃでした。

私たちの住んでいた街には、いわゆるおもちゃやさんはありませんでした。
足を伸ばして、大きい街のデパートや量販店に行くと、おもちゃ売り場がありましたが、売っていたのは、fishher priceなど、アメリカのおもちゃばかりです。
また、街の、高級雑貨屋さんには、北欧の木のおもちゃなど、見るからに素敵なおもちゃだけが置いてありました。そして、小さな小さな雑貨屋さんをのぞくと、こんなおもちゃを、ときおり見かけることがあるのでした。




一歳の息子は、ぜんまいを巻いて機関車を走らせるより、ゴムでできた煙突を、引っ張って抜いてしまうのが好きでした。そのため、遊んだあとは、必ず煙突を探し出して、はめなくてはなりませんでした。




数年前、近所の骨董市で、見覚えのある消防自動車を見つけました。
あの、機関車の仲間です。
アメリカで暮らしていた当時、消防自動車も我が家にあった(ような気がする)のですが、いつのまにかなくなってしまって、久しく見なかったものでした。

馴染みの骨董屋さんで、お値段は500円でした。




というわけで、機関車と消防自動車は、数十年ぶりに再開し、今では一緒に並んで、昔話をしています。
どちらも、年老いていますが、いまでもしっかり動きます。