2009年11月30日月曜日

ストーブを燃やしています

今日は朝からどんより曇っていて、あまり気温が上がりません。
我が家は、OMソーラーで暖房していますので、お天気さえよければ、屋根の上のソーラーパネルの、暖かい空気を送風機で床下に送り込み、コンクリートでできた蓄熱板にためるだけで、翌日の朝まで快適に過ごせます。しかし、今日のような曇った日には、ソーラーパネルの温度は上がりません。

今、外気温が12℃、それでもソーラーパネルは19℃あります。そして、室内は17℃です。補助暖房として灯油を使うと、2時間くらい焚いただけで快適温度になるのですが、まあ、もったいないので、やめておきましょう。
こんなときは薪ストーブの出番です。





薪を燃やすのは、かなりうまくなりました。今日の薪は、3年位前にいただいた、剪定した梨の枝です。

このあたりの、薪ストーブを使っている人たちはみんな、驚くほどたくさん薪を蓄えています。うらやましくて仕方なかったのですが、製材屋さんからケヤキの端材をいただいたり、我が家のクヌギ、コナラも切ったりと、薪もずいぶん増えました。一冬分はたっぷりあります。毎日燃やすわけではないので、もしかしたら二冬、三冬も持つかもしれません。

今期、三度目の薪ストーブは、勢いよく燃えています。

2009年11月28日土曜日

台所道具 赤いもの編



ホウロウのおなべを買ったりするとき、だいたい赤いものを買ってしまいます。こうして並べてみると赤すぎる気もします。普段は散らばっているので、そう目立たないと思うのですが。

左はスウェーデンのクッカムで、これも我が家のご長寿道具仲間ですが、中がちょっと痛んでいて現役はほぼ引退しているので、ご長寿仲間には加えませんでした。
時計回りに奥は野田琺瑯のボンファンヌ。以前、料理の得意なフランス人がホームステイしていたとき、このお鍋できのこの煮込みをつくりながら、「ボンファンヌ?。いい主婦って意味もあるけど、もう一つ変な意味もあるんだよね」と、言っておりました。どんなものかは聞きませんでしたけれど。
右はドイツ製の磁器のキャセロールで、直火でもオーブンでも使えます。我が家では、二人分の鍋焼きうどんをつくるとき、このキャセロールを使ったりします。
手前の分厚くて重いホウロウは、フィンランドのものです。あまり大きくないので煮込み料理はつくりませんが、いつもご飯を炊くのに使っています。ふちが高くて、蓋が重いので、おいしいご飯が炊けます。もっとも、私は蓋が軽いぺらぺらのお鍋でもなんでも、ご飯は炊けるのですが。





ホウロウのポットも、他の色は飽きてしまうことがありますが、なぜか赤は飽きません。後ろのコーヒーを注ぐために口が細くなっているランブルポットなどは、2つもあります。
後ろ左はラード入れ、手前の左はミルク入れです。ともにヨーロッパのアンティークですが、私は乾燥した豆を入れておくのに使っています。
手前の右は粉ふるい、これもアンティークですが、現役です。

2009年11月26日木曜日

ヨーグルトの壷



パレスチナの、ヨルダン川西岸とガザの村々に、私を案内してくれたのは、元同僚のSさんでした。彼は日本人にしては珍しいほど、語学のよくできる人で、アラビア語は、おそらく日本人の中では一二を争うぐらい堪能なのではないかと思います。
正調アラビア語(コーランに書かれているアラビア語)や、パレスチナ方言だけでなく、パレスチナ人から聞いたところによりますと、村の言葉(方言)さえ、彼は使い分けていたようでした。

そのときは西岸の中部の村を回り、いくつかの農家に泊めてもらったのですが、あるとき水の湧き出ている、ちょっとした観光地を通りました。乾燥した地域にあって、水があふれ出て、そこらじゅうに池ができている光景はとても珍しいものでした。

イスラエルは、とても水の少ないところです。
ユダヤ人があの地を目指したときは、宗教的、歴史的背景があったかもしれませんが、占領後、イスラエル国内に十分な土地がありながら、パレスチナ自治区内に入植地(団地)を増やしていったり、シリアを奇襲で負かして、ゴラン高原を占領した最大の理由は、水の問題だったと私は考えています。

ゴラン高原とレバノンとの国境には、4000メートル級の高い山々が連なっています。その雪解け水はゴラン高原を通ってガレリア湖にたまり、ちょっと小高くなっているヨルダン川西岸地域の地下を通って、死海へと注いでいるので、西岸地域では井戸を掘れば、潤沢に水が出ます。しかし、イスラエルの、ほとんどの町や村では地下水は出なくて、ガレリア湖から、パイプで水を引く以外ないのです。

私はその水の豊かな観光地で、焼物の大きな壷を買いました。旅の途中ですから、重くてかさばる壷はじゃま以外のなにものでもないのですが、ついつい買ってしまうのが私の悪い癖です。

その夜、泊めていただいたのは、200年は経っているという古い、大きな農家でした。石を積み重ねてつくった家の、室内はいくつものドームになっていて、小さな窓のところで見えている石壁の厚さは、1メートル近くもあったでしょうか。

大きな壷を後生大事に抱えている私を見て、そこの家のお兄さんが、「そんなものが、好きなの?」、と聞きました。私が「はいはい。好きなんです」、と答えたら、「ちょっと待って」、と言って、外へ出て行き、この壷を手に戻ってきました。
「やっぱり残っていたよ。昔は、この壷を100個くらい並べてヨーグルトをつくっていたんだ。もう使わないから、よかったら持って行って」
「えっ。いいんですか?嬉しい!!」

経済的に自立した生活をさせないというイスラエルの政策で、パレスチナ人は、家畜を飼うことはおろか、土地を没収されるなど、農業で生計を立てることは絶望的です。そんな悲しい背景があってヨーグルトもできないというのに、私はもう幸せの絶頂で、壷を二つも抱えてよたよたしながらこのお家を後にしました。

そのとき観光地で買った壷は、その後どうしたのでしょうか。もう残っていません。でもヨーグルトの壷は、今でも大切な宝物です。





バングラデシュの農村に泊まっていたときのことです。早朝、ヨーグルトを入れた素焼きの壷を7、8個入れた籠を振り分けにして、天秤棒でかついで売っているのを見かけました。
足早の後姿を見たものの、あいにくお金も持ってなかったのでなにもできませんでした。次の日から、お金を持って、何度か村の中を歩いてみました。しかし、とうとうヨーグルト売りに出会うことはありませんでした。

いよいよ去る日も近づいたとき、受け入れてくださっていたNGOのスタッフの人が、「なにかして欲しいことがありますか?」と、聞いてくれました。そこで、訪問の目的にはまったく関係ないのですが、「どこかでヨーグルトが買えますか?」、と聞いてみました。
しかし、ヨーグルトは、早朝売りに来るのを買うだけで、お店はないということ、「あの壷が欲しかったなあ」、と言うと、「空の壷はさがせばあるかもしれない」と、親切にもさがしてくれたのが、この壷です。
ヨーグルト屋さんは、新しいヨーグルトを持ってきたとき、空になっている壷を持って行くのだそうです。
これも、割れないよう、細心の注意を払って運んできました。

いただいたときは、まだヨーグルトの匂いがしていて、梅雨時には何年かかびましたが、やっとかびなくなりました。

2009年11月24日火曜日

保存ビン イギリス編



台所の隣の部屋は、もともと納戸にする予定でしたが、その壁面の半分を食品庫にしました。といっても、ただ、棚をつくっただけです。

乾物、犬猫のえさ、買い置きの調味料、お酒などの食べ物から、台所に入りきらなかった道具類まで、かなり納まるので、食品庫はつくってみて、ほんとうに便利でした。

その食品庫には、以前の仮住まいでは食卓の回りにごろごろさせていた、お菓子類もしまってあります。
ブリキの缶やビン、いろいろなものに入れてありますが、小さな袋入りのお菓子は、たいてい小さなビンに移します。




メイソンズのビン。下のビンたちも、形はちょっとずつ違いますが、全部メイソンズとエンボスがあります。イギリスではもっともありふれたビンなのでしょうか。ときどき、蓋がくるくる回ってしまりきらない、出来損ないのビンもあります。




メイソンズのボールとエンボスのあるビンは、蓋の裏にガラスがはめ込んであり、より密封性を高められるようにつくられています。




蓋をワイヤーで閉めるようになっているのは、メイソンズのアトラス。このビンには、いつもピーナツを入れています。

もっとも、勉強不足で、これらのビンにもともとは何が入れられていたのか、全然知りません。

2009年11月23日月曜日

フランスのビー玉



先日、所要で東京まで行ったときのこと、久し振りの東京だからと、少し時間に余裕を持って出かけ、何度か行ったことのある骨董屋さんをのぞいてみました。
見ただけでお店を出ましたが、まだ時間に余裕があったので、すぐ近くの古い洋書屋さんものぞいてみました。昔の植物図鑑など置いてあるお店です。
そこに、この土のビー玉がありました。
「ひとついくらですか?」とたずねたところ、箱ごと全部でしか売らないとのことでした。
値段はむしろ高くないくらい、しかし、「生活非必需品」が家にあふれている状態をなんとかしなくてはと、反省している自分と、買わないと後悔するぞという自分がいて、心の中で戦います。

ビー玉を手に取ってみたり、置いてみたり、ちょっと別の本をぱらぱらみてみたりと、狭い店内で迷うこと10分か15分、「毎日楽しめるから」という言い訳をしながら、とうとう買ってしまいました。
帰って、数を数えて見たら、350個ほどありました。




泥団子をつくる要領でつくったのでしょうか、一つ二つ欠けていたのを見ると、中の土と、外の仕上げの土の部分がはっきりとわかれて見えました。
持ち主はよく遊んだようで、表面が傷ついて色が薄れ、中間色になっているものもたくさんありました。




しかし、中には、色が鮮明に残っているものもありました。




ほとんどが土の玉ですが、ガラスのビー玉や、鉄の玉、木の玉も混じっていました。ガラスのビー玉の表面も傷だらけ、何度も何度も遊んで、ポケットの中でかちゃかちゃいわせていたのでしょう。それにしても、幼い子どもが激しく遊ぶのに耐える、土の玉やガラスの玉の丈夫さに驚いてしまいます。

ビー玉は、エジプトや古代ローマの遺跡から出土しているほどの古い遊びだそうです。日本では、明治になってからヨーロッパから伝えられた泥玉が製造されるようになり、明治末期にはガラスのビー玉が製造されはじめたそうです(『おもちゃ博物館・めんこ・ビー玉』多田敏捷 編)。

2009年11月21日土曜日

小さなもののための飾りだな



このところ、1ヶ月以上、大工仕事ができていません。仮設工作棟の移設で作業ができなかったこと、珍しく風邪を引いて2週間も休んだこと、お米の収穫・庭の片づけなど、他にやるべきことが山積していたことなどが、大工仕事ができなかった理由です。

四月に、建設中の家に入居したとき、2009年末までには、ほぼ母屋は完成するだろうとみていました。甘かった。11月もあとわずかというのに、まだ、二階は、手つかずの状態です。
二階は、私のコレクション(民具、招き猫、おもちゃなど)の展示室ですが、すでに納まりきれないものたちが、階下にあふれて、増殖しています。

小さなものは、小さな棚に飾ると、やっぱり見栄えがします。これは、私が20年ほど前につくった棚です。模型材料の檜の板を使って、目の細かい手鋸で切り目を入れて、組んであります。
土間の壁に飾っていますが、飾ってあるものは、長い時間をかけて、一つ、また一つと集まってきたものたちです。今は亡き夫の母に買ってもらったものや、古い友人からの贈り物もあります。




これは玄関の飾り棚です。大小の印字(スタンプ)を組み合わせて印刷をしていたころ、印字を入れていた引き出しです。イギリスのものですが、アルファベットは、数字や記号を入れても百足らずだったでしょうから、日本語の印刷と比べて、ずいぶん機能的だったことでしょう。




升目は小さく、しかも奥行きがないので、飾れるものは限られてしまいます。ごくごく小さいもの、薄いけどバランスがよくて倒れてこないものなど飾っていますが、まだ空き部屋があります。




これは、アクセサリーなどを入れるトレイだったのでしょうか。お手洗いに掛けて、いろいろな招き猫を飾っています。

2009年11月20日金曜日

障子張り



お天気がよかったので、古障子を洗って乾かし、6枚の障子張りをしました。

私たち夫婦は、書斎というか、コンピュータのある部屋で、夜を過ごします。
それで、すっごく寒いとき、その部屋だけを締め切って、集中的に暖めればいいと、夫は天井に可動式の古障子を、6枚水平に入れました。寒くないときは、その障子を台所の天井と二階の床のあいだにすっぽりと収めるという仕掛けです。
夫はこの仕掛けをことのほか気に入っていて、客があるたびに、その障子を動かして見せます。ところが、古い障子をもらってきたもので、破れてぼろぼろになって紙 が垂れ下がっているので、誰も夫の真意を正しく読み取らず、いつも、「どうしてこの障子は破れているのですか?」、「誰が破いたのですか?」などと、とんちんかんな質 問をされています。

そこで、見かねて、障子を張りました。




書斎の障子天井を閉めると、こんな感じになります。夫は大喜びです。




私は寒がりではありますが、天井が低いのはあまり好きではありません。息が詰まりそうになってしまうのです。
夫はフランク・ロイド・ライトが好きで、空間には、大きい空間、小さい空間、天井の高い空間、天井の低い空間など、リズムが大切だと言います。だから、天井の低い空間もつくりたかったのです。

でも、私は障子を閉めると落ち着くというよりは、高いところにしまってしまった本の背表紙を見ている方がずっと落ち着きます。まあ、冬の本当に寒い日、この天井が本当に役立つのかどうかお手並み拝見ですが、私の方は当分、障子は開けっ放しにしておくつもりです。


2009年11月19日木曜日

屋根鳩



我が家の屋根の一番高い棟瓦の両側に、瓦でできた鳩が乗っています。

鳩を手に入れたのは、将来、瓦葺きの屋根の家に住むことがあるとは夢にも思わなかった、1970年代のことでした。長男が小学校に入学して新しい友だちができ、近くに住むMちゃんがお母さんと一緒に我が家に初めて遊びに来たときのことだと思います。
学生時代から集めていた、土人形を飾ってあるのを見て、Mちゃんのお母さんが、「瓦屋さんに鳩があったわよ」と、唐突に言いました。どうしてMちゃんのお母さんが瓦屋さんに行ったのか、なぜ私の土人形を見て、鳩を思い出したのかなどは知る由もありませんが、私は、さっそく教えてもらった瓦屋さんに行ってみました。「鳩があるんですって?見せてください」。
瓦屋さんは、注文した人が取りに来なかったと、しきりに文句を言います。ずいぶん腹が立っているみたいでした。
つがいの鳩はなかなかよくできていました。私は当時はコンクリートの四角い家に住んでいたのですが、鳩をゆずってもらい、我が家に連れてきました。

以後、鳩は何度かの引越しにつきあい、地味に光りながら飾り棚の一部を陣取っていましたが、八郷に来て、いぶし瓦の家を建てることが決まったとき、もともと約束されている場所である屋根の上に乗ってもらうことになりました。
失敗したのは、写真を撮っておかなかったことです。今では遠すぎて、かわいい表情を見ることができません。




他の人はどうか知りませんが、私は屋根の上に何かが乗っていると和みます。昔、山手線の目白駅の近くでしょうか。電車から、屋根に本物と見まがう猫と犬がにらみ合っているような飾りを乗せた家が見えました。
奈良の法隆寺の山門の前の建物には、数羽のスズメ飾りが乗っていたような記憶もあります。
八郷のあたりの農家にも、恵比寿大黒や波(火事除け)を乗せている家があります。ただ、しゃちほこだけは大の苦手です。

カンボジアの農家は瓦葺きですが、地方によって、建設した年を透かし彫りにした薄いコンクリート板や、飛んでいるウサギなどの装飾を、切妻の屋根の真ん中に乗せた家がぽつぽつとあります。ちょっとユーモラスで、すてきでした。

また、1981年に中国の上海を訪れたときには、上海郊外で、アマリリスの鉢植えのような装飾を切妻屋根の両側に乗せた家や、数匹の動物を方形屋根の軒先近くに並べて乗せた家をたくさん見ました。それらは車で走っているときに車窓から見えるだけで、「ちょっと停まってください」、とお願いしても、ぜったい停まってくれませんでした。
まだ、みんな人民服を着て、車もほとんど走ってない時代でした。どこへ行くにも、いつでも誰かがついてきて、長屋の立ち並ぶ古い小路に入ってみようとしたら、「だめです」と、身体を張って阻止されたこともありました。
あれから30年、あの美しかった屋根飾りは、きっととっくに姿を消してしまっていることでしょう。



2009年11月18日水曜日

クリスマスの飾りつけ



何年ぶりになるでしょうか。クリスマスの飾りつけ(といっても簡単なものですが)をしました。ここへ来てからの数年は仮設小屋住まいで荷物はみんな段ボール箱のなか、その前の数年はカンボジア暮らし、その前の数年は仕事で忙しくて、季節を愛でたり、感じたりするゆとりがありませんでした。

平面のクリスマスツリーには、小さなオーナメントを飾り、アドベントカレンダーも用意し、あとは小さな人形たちの世界です。




白い教会。ろうそくをつけると羽根が回って、人形たちが雪の教会に出たり入ったりします。




小さなサンタクロースたち。




そしてこちらは贈り物を持って、先を急いでいるサンタクロースです。

フランスのマルセーユにサントンという土人形があります。キリスト生誕の人形などもあるのですが、今年は間に合いませんでした。どこかの段ボール箱にまだ入ったままです。
というわけで、来年はもっと賑やかなクリスマス飾りになることでしょう。

2009年11月16日月曜日

台所道具 すり鉢編



ゴマをする頻度はかなり高く、そのたびにすり鉢が登場します。また、春には山椒をすり、味噌を加えて、筍や、他の野菜を和えたりもします。
一番奥のすり鉢は、この地域(北関東)の古いもの、大きいので大人数用に便利、かぼちゃひとつをまるまるゴマ和えにしたりするとき使います。
その右前の底の平らなすり鉢は、私の父の実家にあったものです。実家は硬質な備前焼きの近くなのですが、このすり鉢は比較的柔らかい土でできていて、したがって筋目も磨り減っていて、もうすり鉢として使うには無理なものです。
手前右は、辰巳芳子さんの推薦している、九州、小鹿田焼きのすり鉢です。欧風のすりこ木がすてきです。
あとの二つ、丸っこいものは、九州、小石原焼きのものです。小鹿田と小石原の出番はしょっちゅう、どちらも使いやすいすり鉢です。



友人のつくった、かわいい卓上用のすり鉢もあります。とはいえ、ゴマをするときはたっぷりするので、この小さいすり鉢はもっぱらミルク入れとして使っています。



すり鉢と同じ頻度で使うのがこの、タイのクロックです。タイには石のクロックもありますが、私はタイで暮らしはじめた最初からこの素焼きのクロックを使っていたので、もっぱらこればかりです。1980年に買ったものですから、このクロックも相当なご長寿です。

1998年から3年間、カンボジアのプノンペンで暮らしました。スーツケース一つで赴任したので、アパートが決まったとき、市場に行って最低の生活道具を揃えました。
そのとき、これと同じクロックを買って、ビニール袋に入れてもらって、市場を出たところで、「あなたはタイ人ですか?」というタイ語が、どこからか聞こえました。「えっ。私のこと?」と、きょろきょろしましたら、タイ人ではなくて、西洋人がこちらを見ていました。目が合うと、クロックを指差します。「タイ人じゃないよ。日本人だよ」と、私もタイ語で応えて別れました。クロックを見てタイ人と思うなんて、彼もタイで暮らしたことがあるに違いありません。

タイでは、どこにでもクロックがあります。レストランにも、屋台にもあるし、農家にもあります。クロックでトウガラシをたたきつぶし、にんにくもたたきつぶし、ナムプラーやライムの絞り汁を入れて、たれをつくったり、それに春雨、魚介類、青いパパイヤなど入れて和え、サラダをつくったりします。リズミカルな、「こっこっこっ」という音が、どこからでも聞こえてくるのです。

私はタイ料理を作るときだけでなく、クミン、シナモン、カルダモンなど、インドのスパイスを粉にするときにも、クロックを使っています。



乳鉢は、コーヒー豆をつぶしたりするとき使いますが、すり鉢やクロックに比べると出番は多くありません。スパイスもつぶしますが、ついついクロックに手が伸びてしまいます。



これはドイツ製の木の乳鉢です。形が気に入って買ってしまいましたが、しみがついたりしないよう、今のところもっぱら戸棚の飾りです。それでなくてもものが溢れているのですから、飾りなんて必要ないのですが...。

2009年11月15日日曜日

飲み薬のビン



昔の薬ビンたち、どれも目盛りがついています。市立小樽病院、鈴木眼科醫院、小林醫院などの、エンボスの入ったものもあります。飲み薬だけではなく、つけ薬のビンもあったのでしょうね。
ガラスの栓のついたものはわずかです。栓のないものは、どうやって蓋をしていたのでしょうか。




丸いゴムのついているのは、香水ビンです。水を入れてぱふぱふやってみたのですが、うまく霧になりませんでした。その右は薬ビン、左は軟膏のビンかと思います。

下が細くくびれている緑のビンは、養蚕活桑器です。蓋にゴムがついていて、小さな穴が開いているので、お蚕さまに桑の枝をあげるとき、桑の葉がしなびないように、このビンに水を入れて、枝を挿していたのでしょうか?でも、それだったら、下がくびれている必要がありませんね。
實用新案第二五六五七五号、養蚕活桑器のエンボスがあります。

飾り棚に飾ってあるビンは、だいたい以上です。
広口の、お菓子を入れて使っているビンや、仁丹のビンなど小さなビンは、またの機会に紹介します。

2009年11月14日土曜日

お米をきれいにします



このところ、お米を切らしていました。パン、うどん、近所でもらったもち米で炊いたお赤飯、赤米のお餅、いろいろなものをお米の代用として食べつないでいましたが、とうとう限界が来たので、籾摺りをすることにしました。
我が家では、お米は足踏み脱穀機で脱穀します。すると、一粒一粒に離れた籾だけでなく、穂のままちぎれたものや葉っぱ、一緒に刈り取ったひえの実などが一緒に混じったまま出てきます。それを籾摺り機にかけられるまでにきれいにするには、かつては唐箕を使いましたが、唐箕は大きく、運び出すだけでも大変なうえ、シートを敷いて使っても、そこいらじゅう籾だらけになってしまいました。

唐箕は、手で木の羽を回し、軽いごみや十分に実が入ってない籾を飛ばして選別する機械ですが、強く回すと、実の入った籾まで、飛んでしまいます。軽く飛ばすと、ゴミが飛びません。
しっかり実の入った籾、中くらいの軽さの籾、ゴミと3段階に分かれて出てくるのですが、どれも同じようで、またやり直さなくてはならなかったりします。回し方のこつを掴むころには、たいてい日が暮れてしまいます。しかも唐箕を使うと、お米を上から入れる人と、羽を回す人と、最低二人は必要です。そのため、唐箕の使用はやめて、昨年は脱穀したままの籾を、とりあえず紙袋に入れました。籾摺りのたびにきれいにすればいいやと思ったからでした。

一年間、精米したお米がなくなるたびに、半日掛けてゴミ交じりのお米をきれいにし、それから籾摺りして、精白するという手順でした。




これが、篩と風選箕できれいにした、籾です。あとは、よくできた電気で動く籾摺り機があっというまに玄米にしてくれて、そのあと精米機で、時間を見計らって、好きなつき方の白米にします。
やっと久し振りにお米を食べられることになりました。
これで、2008年度のお米はおしまい、次回は遅まきながら新米を食べることになります。


2009年11月13日金曜日

シクラメン



パレスチナの村で、どこに行っても、オリーブ畑の石垣のあいだに野生のシクラメンが生えていたのを見たことがありました。別の季節には、アーモンド畑やオリーブ畑で、アネモネ、ケシ、ヒナギク、菜の花などが一面に咲き、数日間は色とりどりの絨毯のようになっているのも見ました。夢のような美しさでした。
シクラメンが、日本でも育つとは知りませんでしたが、4年ほど前のこと、ホームセンターで原種シクラメンを売っているのを見て、懐かしさでいっぱいになり、即購入しました。

植えたところがちょっと日陰過ぎたのか、1株は消滅、残った1株も元気がないので、もう少し陽がさす、半日陰の場所に移しました。
今年の春、シクラメンは大きくなったギボウシの葉の下から、なんとか光合成したいと、葉柄を長く、ひょろひょろと伸ばしていました。これはまずいと、二度目の移植をしました。
三度目でやっといい環境だったのか、8月ごろいくつか花が咲き、10月にまた、たくさんの花が咲きました。

ところで、我が家では、今、仮設工作棟の引越し中です。ビニールハウスを2棟を取り壊したら、本当の作業棟を建設するために、シクラメンを植えてあるところも整地しなくてはなりません。「まだ葉が残っているうちに移さなくちゃ」と見てみましたら、あらっ、花の茎(柄)がくるくると丸まって、真ん中に実がなっているではありませんか。




ネットで調べてみたら(便利です)、シクラメンの語源は、くるくると巻くということだそうです。知りませんでした。




きれいに、巻いています。実から増えたりすると嬉しいのですが。また移植するので、どうでしょうか。

今、シクラメンを植えているところは半日陰、色々な植物に好まれているところです。すべての植物たちに同じような環境を見つけてあげたいのですが、目先の仕事に追われていて、まだまだそこまで手が回っていません。




隣で、季節はずれのキキョウが一輪咲いていました。

2009年11月11日水曜日

ぶらさげてあるビン



これはなんのビンだったか、忘れてしまいました。例の骨董屋さんが持っていたものです。
「これはいくら」、「珍しいものなんだよ。3000円」、「ええっ」。ガラスコレクターではない私はもちろん買いませんでした。
ところが、それから骨董市で会うたびに、このビンは売れ残っていて、なかなか減りません。
「あら、まだ残っているんだ。高かったもんねえ」と私、「最後の2本だ。もう安くしてもいいや。しかたない、2つで1000円」と骨董屋さん。
そんな感じで、初めて見てから数ヶ月後に我が家に来ました。ところが立たないので、仮設小屋住まいの時には、適当に放って置かれていました。
飾り棚をつくったとき、立たないのでしかたなくぶら下げてみました。そうしたら、気泡も入っていて、なかなかきれい。
『びんだま飛ばそ』にも、『おかしな駄菓子屋さん』にも載っていませんが、なんのビンでしょうか。口はねじ式の蓋がつくようにはできていませんので、コンペイトウのビンでもなさそうです。




寒天ゼリーのビンです。一ハラ商店と、エンボスが入っています。




学生時代、友人たちと港町に行くことがあると、たいてい釣具屋さんをさがして、かわいい魚篭だの、木の浮きだの、ガラスの浮き玉だのを買っていました。魚篭はバッグ代わりに持ち歩き、カラフルな木の浮きはキーホルダーにしたりして、とっくの昔になくなっていますが、直径20センチくらいのガラスの浮き玉だけ残っています。しっかりと編んであった網は取り外して捨ててしまいましたが、ガラス玉は健在です。
この形の浮き玉は、こちらに来てからはじめて見ました。戦前に、北海道や東北など、北の方でつくられた浮きだそうです。紐も、ついていた当時のままのものです。

2009年11月10日火曜日

ニッキ水のビン



ひょうたん型のビンを見ると、思い出もないのに、なぜか郷愁をそそられてしまいます。薄い薄いガラス、切りっぱなしの口。「よく残っていたなあ」と、声をかけたくなります。
私の手持ちのもので、もっとも古いのは左から三番目のひょうたんです。20年位前に仕事で京都に行ったとき、京都大学の近くの骨董屋さんで買いました。800円くらいだったでしょうか。
当時、ニッキ水のビンの存在を知っていたのか、知らなかったのか覚えていませんが、本物はそのとき初めて見ました。その次に古くから持っているのはキューピーのビンですが、あとのひょうたんはみんな八郷に来てから、この8年のあいだに集まったものです。

我が家からそう遠くない別々のところで、月に骨董市が3回開かれます。一番近いところは車で20分くらい、月に1ヶ所か2ヶ所はそれらの骨董市をのぞいて見ます。
その全部に店を出している骨董屋さんがいます。昔のおもちゃとガラスを中心に品揃えしているのですが、ずいぶん前に招き猫を買ってから、知り合いになりました。私は当時招き猫を集めていたので、そのあとも招き猫はいないかと、必ずのぞくようになりました。
ところが彼はいつも猫は持ってこないで、ブリキのバケツとか、塗り絵とか、ガラスビンとか勧めるのです。
「カゴメのしょうゆさしはこれで終わりだよ」とか、「この薬ビン、まだ持ってなかったっけ?」とか。
100円、200円のものなので、ついつい「じゃあこれ1つね」なんて買ったいたら、気がついたらいつのまにか家にガラスが増えていて、関心も出てきていました。

京都で買ったものだけ、ちょっと緑がかったガラス本来の色をしていますが、この近くで買ったものはみんな無色です。




3本の同じビン、きれいに洗ったものと、ラベルが残っているものと、キャップをしたまま、中身が蒸発してしまったビンとあります。シールには、「ニッケイ水 島田市 山岸飲料」とあります。私は中をきれいに洗って、光が透るのを見るのが好きですが、せっかく残ってきたことを尊重して、これだけはそのままにしてあります。




真ん中の首の長いビンはみかん水のビンです。
みかん水のビンはなじみの骨董屋さんが、だいたいいつでも持っているものですが、なかなか気に入った形のものには出会わず、1本しか持っていません。色がきれい、底が四角で、エンボスも入ったものです。

2009年11月9日月曜日

新しいビン



私のガラスの飾り棚のビンには、アンティークだけでなく、今できの新しいビンも飾ってあります。形が好きなものなら、古くても新しくてもかまわないのです。
この3本はビールビンです。コバルトのビンは銀河高原ビール。以前はプラスティックのキャップをつけて、お酢入れとして使っていましたが、色がきれいなので、いつのまにか飾り窓に昇格しました。最近は、残念ながら、銀河高原ビールも缶ビールしか見かけないようになりました。

右の黒麦生ビールは、胴と首のバランスがよくとれています。この、キャップがついた形のビンは、首が長過ぎるものや、胴が短い過ぎるものが多くて、なかなかバランスのよいビンが見つからないのですが。また、キャップもプラスティックではなくて、磁器でできています。すてきです。ネットで見てみましたら、とっくに消えうせたのか、日本ビール株式会社はコロナビールの代理店になっていました。

真ん中のコロナビールには、ちょっとだけ思い出が詰まっています。




ワインのビンは、飾ったり、捨てたり。結構出入りが激しかった時期がありました。飾らないまでも、捨てないでとっておけばよかったのにと、今ごろ思うものもありますが、処分するときはきっぱり処分しなくては、いつまでも処分できません。




右端はワインのビン、右から二番目は泡盛のビンです。働いていたときに、職場に泡盛が差し入れされて、沖縄ガラスのビンは、「はい。これはあなたのね」と、私のところにまわってきました。
以来、このビンは、我が家で骨董になりつつあるところです。

左の2本はなんのビンかわかりません。両方とも、ワインのビンのように底が上がっている、古いものです。しかし、右から三番目のビン、こんなに口の太いワインなんて、ありませんよね。薬ビンでしょうか。